【17年目 第188回】2026年1月
長寿の夢 ―継続は力なり―
新年あけましておめでとうございます。本コラムも17年目に入りました。「継続は力なり」と申します。おかげさまで、私も、弁護士50年、出版10冊、ゴルフスコア95などを越えました。最近では、人のために生きるをモットーにしています。自分の家族だけでなく、事務所の職員や、仲間である弁護士20人やその家族のために働くと考えると、元気が湧いてきます。はからずも、長寿で飛躍する境地に入ってきました。私の心境とピッタリの葛飾北斎の名文(現代訳)をお届けします。
「自分は6歳のころより物の形を写生する癖があり、50歳に入るころから本格的に数々の作品を制作発表してきた。しかしながら70歳より前の作品において取るに足るようなものはなかった。73歳になってようやく禽獣虫魚の骨格や草木の出生のいくらかを悟り得た。努力を続けることで80歳になれば益々進化し、90歳で画の奥義を極め、100歳になれば神妙の域に到達するだろう。百何十歳になれば一点一格がまるで生きているかのように描くことができるだろう。願わくば長寿を司る神よ、私のこの言葉が嘘でないことを見ていてください」
北斎は、現在の日本文化の最高峰のアニメの原型をも創作していました。これが世界を牽引している文化となりました。私も、世界に発信する構想を次々に執筆しております。昨年12月その一端がYouTubeに上がっておりますので、是非ご覧ください(ハワイ大学町淳二教授の市民講座「JrSr〜未来の医師への贈りもの〜 未来の医師168」)。一般の方にも大変役に立つように、分かりやすくお話をさせて頂きました。
【16年目 第187回】2025年12月
台湾有事?-日本の貢献-
久しぶりに台湾に旅行しました。まず料理が非常に美味しいのに感心しました。それ以上に、日本が、戦後発展した中で、アジアの模範となり、各国に真似され、それぞれが発展されたことに思いを新たにしました。日本は自ら復興し、アジア各国にODAを通じて援助し、貢献してきました。観光をしていたところ、にぎやかな台北のど真ん中に観光名所の装飾的なビルがあり、みなさんが写真を撮っていました。建設会社は鹿島建設とのことでした。また、郊外の「千と千尋の神隠し」の舞台と噂される「九份」に足をのばし、天上から見下ろすように古い風情のある店で、穏やかな香りの烏龍茶を味わいました。日本のアニメのおかげで、観光客が殺到して、急斜面の道に人がひしめきあっていました。地元の皆様と話をしていると、日本から有名になったといえるテレサ・テンの人気は絶大で、今でも会えるかのような雰囲気に浸りました。
日本の漢字文化は、中国人には勉強しやすかったことから、台湾では、日本からの留学帰りの人々により、大学や大学院の教育が著しく高度化しました。女性の社会進出は、世界のトップレベルです。あらゆる分野で、女性が地位を得て、大いに活躍しています。これも、日本の発展を真似をし、さらに米国の文化を導入した結果と言えます。しかしながら大きな問題が起こっています。出生率の大幅な低下です。最近の合計特殊出生率は、台湾0.89であり、韓国0.75と、ほぼ同じで、日本の1.2より下がっています。世界最低水準にまで低下しています。高市首相の台湾有事に関する発言が、大問題と取り上げられています。しかし、そのような政治的課題以上に、より、基本的なことを検討するべきでしょう。台湾の少子化については、改めて日本がリードして、世界的モデルを作る中から、台湾に対する示唆を提供する必要があると感じています。
【16年目 第186回】2025年11月
「ドイツ視察」-目からウロコ-
8月末に、民事訴訟の調査のため、ベルリンに行ってきました。札幌のように涼しく、快適な視察でした。ドイツには、アウシュビッツのような強制収容所が、20以上あります。ベルリンに最も近いザクセンハウゼン収容所を見学しました。感銘を受けたのは、政治犯やユダヤ人の被害者の写真や経歴などが家族と共に、綺麗に展示されていたことです。他方で、感心したのは、加害者のナチスの軍人たちの写真や経歴が、同じように詳細に並べられていたことです。中に、ベルリン市長の写真があり、思わず、「これは悪い人ですね」と呟いたら、案内されていた学者が、「彼はナチスに抵抗して政治犯として処刑された人です」と説明されました。つまり、歴史の詳細を確実に残しております。びっくりしたのは、その数の多さでもあり、歩いているときに次から次に展示されているその執拗さです。これまでかと思うほどの執念での展示です。帰国の途上でも頭から離れることはありませんでした。ドイツ人が戦後どれだけ自省を深く継続してきたかに心を打たれます。他方で、ヨーロッパのど真ん中でナチスが史上最大の残虐行為を引き起こしたのであり、他の諸国がドイツを許すことはなく、戦後に向けての必須の手続であったと考えるに至りました。


